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記念誌年表(1985年卒)
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OB会管理人キーマスター
以下の内容につきまして「返信」で投稿をお願いいたします。
・年間行事(校内・校外)
※1年生からの行事をご記入ください。
※会場もわかればお知らせください。
・顧問の先生
・学生指揮者
・活動場所
・その他特筆すべき内容(楽器を購入したなど)皆様の書き込みが充実した紙面に繋がります。
お忙しいところお手数をおかけいたしますがご協力の程お願い申し上げます。景山 将系ゲスト何回かに分けて投稿します。まずは定形のものから。
・年間行事
一年生(1982年度)
6月:文化祭演奏会 場所:国民会館(この頃は3年に一度は国民会館と聞かされていました)
曲:吹奏楽のための民話(メイン)、子象の行進、美中の美 など(これ以外覚えていません。誰か補完を)
時間は約1時間。2部に分かれていたかは覚えていません。
3年生はこの行事を最後に引退。一年生は全員出演でパーカッション以外降り番なし。3年生がいるので楽器がない人もいましたが、そういう子はパーカッションに詰め込んで出演。秋(10月?):体育祭 場所:運動場本部テント横
開会式と閉会式での演奏。この年までは演奏は校歌と得賞歌のみ。秋(11月?):文化系クラブ発表会 場所:講堂(旧本館の2階?にあった)
曲:大脱走のマーチ(これ以外覚えていません。誰か補完を)
時間は30分ほど?冬(2月?):予餞会 場所:講堂
曲:全く覚えていません
時間は30分ほど二年生(1983年度)
4月:ウェルカム・コンサート 場所:本館3階の一般教室のどこか
いわゆる新歓演奏会です。前年もやってるはずですが前年は確か存在を知らず聴かなかったと思います。
時間は30分ほど6月:文化祭演奏会 場所:青少年会館大ホール
曲:錨を上げて、インスタントコンサート など(これ以外覚えていません。誰か補完を。メインも覚えていません。)
時間は午前の部最後の30分。午後の部最後の30分。
3年生はこの行事を最後に引退、一年生は全員出演で基本降り番なしなのは前年と同じ。
この年から副指揮者制度発足。以降副指揮者のデビューはこの文化祭演奏会で文化祭演奏会のみ正副二人の学生指揮者が指揮をすることになりました。
秋(10月?):体育祭 場所:運動場本部テント横
開会式と閉会式での演奏。この年から演奏は校歌と得賞歌に加えて入場でのマーチ演奏。秋(11月?):文化系クラブ発表会 場所:講堂
時間は30分ほど?冬(2月?):予餞会 場所:講堂
の予定でしたが中止になりました。中止の理由は覚えていません。三年生(1984年度)
4月:ウェルカム・コンサート 場所:本館3階の一般教室のどこか6月:文化祭演奏会 場所:青少年会館大ホール
曲:君の瞳に恋してる、狂詩曲ノヴェナ、ミュージカル「キャッツ」メドレー、ショスタコーヴィチ交響曲第5番4楽章抜粋(メイン)など(他は覚えていません。誰か補完を)
時間は午前の部最後の30分。午後の部最後の30分。
3年生はこの行事を最後に引退。この年は新入生が多く(30人?)フルートは10人を超えていたのでフルートで降り番が発生。以降は引退してましたので省略します。
・顧問の先生
数学科の中村良一先生・学生指揮者
同好会12期:村川先輩(Trombone, 12期部長)
同好会13期:池田くん(Trumpet)
同好会14期:澤田さん(Flute)・活動場所
後述以上
景山 将系ゲストこれからいくつかのトピックで投稿します。
コンクール出場を目指してのクラブ昇格運動
同好会17期をもって同好会からクラブに昇格しましたが、それ以前にもクラブへの昇格の試みがありました。
私の代(同好会13期)が幹部(この頃は1年生秋に幹部交代、ただし幹部を譲った2年生は引退せず引退は翌年6月の文化祭)になった1982年秋から確か部長になった廣田さん(旧姓、今は森下さん)の発案で翌年の吹奏楽コンクール大阪府大会(当時地区大会はありませんでした)への出場を目指して活動を開始しました。
いろいろ調べた結果、吹奏楽連盟に加盟するにはクラブになるしかありませんでした。連盟的には問題なかったはずですが、学校の同好会の活動制限で校外活動は認められていなかったからです。
かなり本気でコンクール出場を目指してました。なんと驚くことに6月の文化祭演奏会のメインの曲を自由曲(曲名覚えていません(泣))と決めて練習を開始してました。
しかしその努力は報われませんでした。
確か3月くらいでしょうか。とある日に顧問の中村良一先生から部員にお話があるとのことでミーティングがありました。顧問の中村良一先生はほとんど音楽とは無縁の方で長年顧問をしていただいていました(※1)が活動にはほとんど口を出さず練習にも顔を出すことは殆どありませんでした。その先生が部員を集めて話をするのは非常に珍しいことでした。
そのミーティングの場で中村良一先生は私達にはっきり言いました。
「半永久的にクラブにはなれない」
と。その理由については詳しくは言われませんでしたが現状で職員会議、クラブ代表者会議で通ることはないとのことのようです。
先生の方でもかなり動いてもらったようです(当時部長の廣田さんなら詳しく知っていると思うのですが残念ながら私はその辺は詳しく知りません)。その結果ですので私達にはどうすることも出来ませんでした。
その場で大勢の女の子たちが泣いていたのを覚えています。
自由曲として練習していた曲はそのまま文化祭演奏会のメインとして演奏しました。
そうして私達の代のクラブ昇格運動は終わりましたが、このままで終わるつもりもありませんでした。クラブになってコンクールに出るのは無理でも別の何かはあるだろうと。
そして出てきたのは体育祭の入場行進でマーチを演奏する
でした。
続く景山 将系ゲスト前の投稿で
顧問の中村良一先生はほとんど音楽とは無縁の方で長年顧問をしていただいていました(※1)
としていたのに※1について書くのを忘れていましたので追記します。
※1
今も同じとは思いますが当時の同好会は顧問の先生が保証されていませんでした。クラブは学校側が顧問の先生を保証してくれていましたが同好会は自分たちで顧問をしてくれる先生を見つけて頼み込むしかありませんでした。しかも同好会は自動継続がなく毎年申請をしないといけないので毎年お願いしていました。景山 将系ゲスト体育祭の入場行進でのマーチ演奏
今では体育祭の入場行進でマーチを演奏するのは当たり前ですが、私が入学した頃(1982年)まではこれは当たり前ではありませんでした。開会式では校歌。閉会式では得賞歌を演奏するのみです。入場行進は放送委員が流す放送で入場し、その間私達は本部テント横でぼーっと立っているのみでした。
1983年春、クラブ昇格運動に敗れた私達の次の目標は体育祭の入場行進でマーチを演奏することでした。
文化祭終了後からロビー活動を行いました。対象は自治会、放送委員会、体研(体育科研究室)。クラブ昇格運動とは違いかなり手応えがありました。なにせ当時の自治会会長は私を含めて部員数名の友達で、自治会書紀と放送委員会委員長は元吹奏楽同好会部員で吹奏楽同好会幹部学年(私達13期)とは全員顔見知り。そして放送委員会にも私を含め何人かが潜り込んでいました。
体研からは思ったよりあっさり許可がもらえました。
体育科先生「体育祭の行進で演奏?かまへんよ」
自治会からもOKが出て体育祭では無事、入場行進でマーチを数曲メドレーでエンドレスで演奏することになりました。景山 将系ゲスト副指揮者
現在、定期演奏会のフェリーチェコンサートでは学生指揮は新3年生と新2年生の学生指揮者が振っています。要するに学生指揮者に副指揮者がいます。断言は出来ませんが学生指揮に副指揮者がいるのは高校吹奏楽部では非常に珍しいと思います。
実はこの副指揮者、1982年までは存在していませんでした。文化祭演奏会も1982年までは3年生の指揮者が一人で振っていました。
1982年の文化祭後に指揮者になった二年生の村川先輩は部長でしたが同好会12期には指揮者経験者がいなかったため指揮者を兼任することになりました。ご自分が指揮者として経験不足であることから体育祭、文化系クラブ発表会、予選会、ウェルカムコンサートは問題なくても来年6月の文化祭演奏会は自分一人では不安だということと指揮者の引き継ぎ期間を持たせるために一年生(同好会13期)から指揮者を出して来年の文化祭演奏会では二人で指揮をすることを決めました。おそらく私達の代の池田くんが音楽や指揮に非常に詳しいことと、自分が急に指揮者になったので後の代が自分と同様に困らないようにとのことから思いつかれたのだと思います。
年が明けて文化祭の曲の練習が始まると二人の指揮者で練習が行われました。片方の指揮者が休みのときは代振りでの練習もあったと思います、というか特定の曲以外はかなり後までどちらが振るか固定していなかったように記憶してます。本番では二人が等分に曲を分けて指揮をしました。
このあたりは翌年も同じで、なんと1984年の文化祭演奏会では曲の途中で指揮者が変わるということもしていました。以降1年生は秋に部長だけではなく副指揮者として指揮者も選出し、副指揮者は年明けから6月の文化祭でのデビューを目指して練習で指揮をすることになりました。
景山 将系ゲスト活動場所(練習場所)
私の現役だった当時(1982年から1984年)は練習は一般教室で行っていました。部室が本館3階のクラブ長屋にあったことから時間のない平日は場所の近い本館3階の教室が多かったです。移動時間のある土曜日や夏・冬・春休みのときは新館(プール横の校舎、今は部室棟になっているんでしたっけ)2階の一番奥の教室が多かったです。一番奥の教室なので廊下が不要で廊下が無い分教室が広かったのがおそらく理由です。
文化祭直前には朝練がありました。始業の前に学校前の大阪城公園に集まって合奏練習をしていました。
音楽室は音楽部コーラス班が使っていたのでとある事件があるまで使ったことはありませんでした。
とある事件とは。
先にも書いたように文化祭直前には朝練がありましたがそれでも練習時間が足りません。そこで1984年の文化祭への向けての練習で日曜練習をしようと盛り上がりました。しかし顧問の先生がいない日曜には学校では練習できませんので大阪城で練習しようということになりました。もちろん顧問の中村先生には無断で。今考えるとかなり無謀な行為です。朝練をしている学校前の大阪城公園だと学校にバレるので少し遠い教育塔広場のあたりで行いました。
そこで事件が発生しました。
学校に内緒で行うので当然打楽器は前日に持ち帰る事が出来る小物しか使えません。それ以外の打楽器は無しで合奏練習をする予定でした。ですが日曜練習で盛り上がった一年生が幹部に無断で打楽器を学校から持ち出して持ってきてしまいました。ビックリしましたが持ってきたものは仕方ないのでそのまま練習しました。ですがそれが大問題になりました。
実はその日はたまたま顧問の中村先生が休日出勤で学校で仕事をしていました。その中村先生がでっかいバスドラムを学校から持ち出す一年生を目撃していたのです。
当然、翌日中村先生から大変怒られました(部長と前部長が)。でも顧問の中村先生は良く出来た先生でした。怒るだけではなく自分がいないところで勝手にされては困ることから音楽科で音楽部顧問の先生に掛け合って日曜日に音楽室を使えるようにしたのです。
そして文化祭まで何回か日曜に音楽室で合奏練習を行うことが出来ました。景山 将系ゲストドラムセットについて
私が入学したときにはドラムセットはありませんでした。それまでは基本ドラムセットは無しで演奏して、どうしてもドラムセットが必要な曲をするときは音楽部軽音班から演奏者と一緒に借りて演奏していたそうです。
私が一年(1982年)の文化系クラブ発表会が終わった後に同じ一年のトロンボーンの西林くんがどうしてもドラムをやりたいと驚くことにドラムセットを買ってパーカッションに移動しました。
そして次の予餞会からはドラムセットが舞台に載ることになりました。それからドラムセットは大活躍しましたが、私達(同好会13期)が卒業するときに問題が発生しました。ドラムセットは個人持ちなので持ち主の西林くんが卒業すると持って帰るのでなくなります。
そこで私達の代がお金を出し合って中古のドラムセットを買って、現役への卒業プレゼントとして贈りました。
その後に新しく買ったとかの話は聞きませんので、今使っているドラムセットはその時のものだと思います。スタンドに私達卒業生のサインを入れていたのですが、今のスタンドにはサインは無いのでスタンドを交換したのでしょうか。景山 将系ゲスト・年間行事
一つ忘れていましたが1993年卒の花市(旧姓佐々木)さんの書き込みで思い出しました。毎年3月 茶話会
場所:新館2階の一番奥の教室が多かったかと。広いですから。
卒業される三年の先輩方を送る会。卒業生も交えて前年の文化祭での曲を演奏しました。一年生から三年生まで一緒に演奏する最後の機会でした。
一年のときの茶話会では前年の文化祭では私は先輩が母校の中学から借りてきた楽器で出ていたので茶話会で吹く楽器がなく(今の担当楽器は卒業する三年生の先輩が使うので)臨時にバスドラムで演奏に参加しました。景山 将系ゲストクラブ昇格への道
同好会17期生の努力でクラブに昇格出来ました。それには大変な苦労があったことだと思います。それについては同好会17期で現在のOB会事務局長である石出氏の投稿に期待したいと思いますが、同好会17期でいきなりクラブに成れたわけではなく、そこに向けての流れがあったように思います。
この投稿ではそれについて思いついたところを書こうかと思います。1つ目
1983年体育祭での入場行進のマーチ演奏
同好会13期が幹部のときに実現。非常に手前味噌ですがここから少しずつ変わったように思います。2つ目
1985年2月頃 音楽授業選択者による音楽科の発表会でベートベンの第九の終楽章の伴奏担当
それまでの音楽科の発表会での合唱はピアノ伴奏でしたが、曲目からピアノ伴奏ではなく吹奏楽同好会が伴奏担当になった模様。この辺の経緯の投稿をお待ちしています。同好会14期生15期生の方々。
自分は三年で引退していて出ていません。聴きに行きたかったのですが3年生はすでに大学受験のための自由登校になっていて観客として呼ばれていないので聴けませんでした。学校にはいましたが多分聴きに行くと勉強しろと先生に怒られるので行かなかったことを覚えています。3つ目
金蘭会百周年記念総会での演奏
詳しい経緯は知りません。該当年の方の投稿を期待します。
金蘭会に吹奏楽同好会の存在を知らしめた行事だと思います。4つ目
第3ブロック演奏会出演
百周年の後だと記憶していますが校外活動が認められていない同好会であるにも関わらず出演ができるようになりました。
これの詳しい経緯も知りませんので該当年の方の投稿を期待します。
外部に大手前高校吹奏楽同好会の存在を知らしめた出来事だと思います。徐々に活動の範囲が広くなっていってるがわかると思います。クラブ昇格が出来たのはこれらのことが大きく影響しているものと思います。
私が気づいているのは上の4つです。他にもあるかもしれません。知っている方は投稿をお願い致します。景山 将系ゲスト年間行事の毎年3月の茶話会について記述が抜けていましたので追記
この茶話会は学校行事ではありません。吹奏楽同好会だけの身内の会です。
森下 雅子(旧姓 廣田)ゲスト同好会13期生 森下 雅子 Trumpet(旧姓 廣田)です。
同期の景山くんが詳細な記録を書き込んでくれているので、それにプラスする形で投稿します。
・年間行事
一年生(1982年度)
6月:文化祭演奏会 場所:国民会館
(景山くんの記述にプラスして)
チキチキバンバン、ビートルズは飛んでいく(ビートルズメドレー)秋(10月?):体育祭 場所:運動場本部テント横
部活動リレーで、文化系の部は走らず、パフォーマンスをするということになっていました。有志4名で桃太郎の仮装をし、昔話ソングの「桃太郎」を吹きながトラック1周しました。私は自分で作った段ボールの鎧が結構気に入ってました。みんなにもうけて、すごく楽しかった記憶があります。秋(11月?):文化系クラブ発表会 場所:講堂(旧本館の2階にありました!)
(景山くんの記述にプラスして)
燃える闘魂(アントニオ猪木のテーマ) ドボルザーク「新世界より4楽章」(抜粋)冬(2月?):予餞会 場所:講堂
曲:全く覚えていません二年生(1983年度)
4月:ウェルカム・コンサート6月:文化祭演奏会 場所:青少年会館大ホール
録音テープがありました!プログラム順に曲を掲載します。
第一部(指揮:池田圭一)
錨を上げて オリーブの首飾り インスタントコンサート アフリカンシンフォニーアンサンブル
金管4重奏:スリーダンシーズ 木管4重奏:シューベルトの変ロ長調作品D613第二部(指揮:村川淳一)
ロッキーのテーマ 80日間世界1周 星条旗よ永遠なれ エンコミアム
アンコール サンライズマーチ景山くんの記述にあった「コンクールのために」と選曲したのが「エンコミアム」(マギンティー作曲)だと思われます。私が推したのでしょうね。私の出身中学校の吹奏楽部が前年度にコンクールで演奏した曲です。スクールバンドのための曲で、当時は新曲でした。高校生当時、多くの曲を知らなかったので、身近な所で知っている曲を選んだのだと思います。
指揮者の池田くんは文化祭のためにわざわざ「燕尾服」をレンタルして、指揮をしてくれました。
録音テープを聞くと、会場のみんなものりのりで、曲間には「○○くーん!」「□□ちゃーん!!」と出演者へのコールが絶えません。マーチやポップスは手拍子つきです。「次の曲は途中でテンポが変わるので、手拍子はご遠慮ください」というアナウンスがあった程です。全校生に楽しんでもらっていたんだなとちょっと嬉しくなりました。
秋(10月?):体育祭 場所:運動場本部テント横
入場行進曲は「ワシントンポスト」だったような気がします。秋(11月?):文化系クラブ発表会 場所:講堂
覚えていません。(14期の長谷川くんの記述が最も詳細です)冬(2月?):予餞会 場所:講堂
の予定でしたが中止になりました。途中の出演団体のステージが長くなり、プログラムの後半をカットしないと下校時刻までに予餞会が終わらないという状況になりました。仕方なく私たちは演奏をあきらめました。三年生(1984年度)
4月:ウェルカム・コンサート 場所:本館3階の一般教室のどこか6月:文化祭演奏会 場所:青少年会館大ホール
(13期の景山くん、14期の長谷川くんの記述にプラスして)
シェリントリンド文化祭のために、Tシャツをそろえたり、難波のとらやで布を買ってきて赤いネクタイを自分たちで作ったりしました。
狂詩曲「ノヴェナ」の紹介アナウンスで「この曲は吹奏楽のオリジナル曲で~」というくだりがありました。後日、指揮者の池田くんはある友達から「ノヴェナは池田くんが作ったオリジナル曲なんやな。すごいな。」と言われたので「すごいやろ。」と返しておいたそうです。(今でもその人のなかでは池田くん作曲のノヴェナってことになっているのでしょうか・・?)
森下 雅子ゲスト13期 部長として(同好会だったから会長かとは思いますが、当時「部長」で通ってましたので)
私は中学時代、顧問と環境に恵まれ、充実した部活動に取り組むことができました。なので、中学校吹奏楽部と高校同好会のギャップに衝撃を受けました。練習はすべて生徒で行う、対外的な活動はできない、予算がない、楽器の備品はほとんどないなど・・・。一時はこのことに不満を感じ、落ち込みましたが、どうしても吹奏楽が好きで、何とかしたくて「何もできないじゃなくて、できることからやっていこう!」と気持ちを切り替えて、活動することにしました。
顧問:中村良一先生(数学)
1年生の秋ごろ、私は部長になりました。部長だった私は練習場所の使用申請書に印をいただくため、週一のペースで顧問の中村先生と接していました。「ぼくには音楽的なことは分からないから申し訳ない。みんな仲良く活動してるか?」などと、私たちを気遣ってくださっていました。当時は同好会だったので、中村先生が顧問をしなければならない義務はなく、善意で顧問を引き受けてくださっていたのだと思います。その頃の私はとにかく「部に昇格したい」「吹奏楽連盟に加入したい」「コンクールに出たい」と、学校の内情など、知る由もなく、突き進んでいたので、先生にはいろいろ迷惑や心配をかけていたのではないかと思っています。
その時、部になれなかった理由は私も知りません。顧問、予算、練習場所のことなど、いろいろな理由があったのでしょう。部に昇格するためには、「きちんとした部則」が必要であるということになり(どこから、誰からそういうことになったのでしょう?)、他校のものを参考にしたり、先輩たちからアドバイスしてもらったりして「部則」を作りました。内容ははっきりとは覚えていませんが、「部長は1名とする。任期は~。」のようなものだったと思います。
「同好会から部へ」の昇格
私が大学3回生の12月だったと思います。この知らせを私は後輩から受けました。その後輩が誰だったかが思い出せなくてごめんなさい。私の大学の定期演奏会を聴きに来てくれた時に「来年度から吹奏楽部になるんです!」と報告を受け、嬉しくて泣いてしまいました。(当時、私の大学の吹奏楽部は、12月に青少年会館ホールで定演を行っていました。ホールが大手前高校から近かったので、後輩に定演のチケットを買ってもらっていたと思われます。)17期の石出さんの投稿を読むと、同好会から部へ昇格していった様子がよく分かりました。石出さんをはじめ、その当時の部員の方々、中村先生には大変なご苦労があったことと思います。本当にありがとうございました。
森下 雅子ゲスト大阪城のお堀の前
当時、同好会であったため、確約された練習場所はありませんでした。前述のように毎週申請して借りたり、どうしても場所がない時、朝練習の時などは大阪城の堀の前で練習していました。不便ではありましたが、私はこの堀の前での練習がすごく思い出に残っています。練習しただけでなく、文化祭後やお別れ会の余興もこの場所でしてました。みんなで写真撮ったり、花いちもんめしたり、とにかく楽しかったです。
思い出深い先輩:桑江先輩
桑江先輩は私たちより4~5年上のトランペットの先輩で、大手前高校卒業後は、京大のオケに所属しておられました。そして、私たちの練習に頻繁に顔を出していました。私の前後の世代の人はみんな、桑江先輩を知っていると思います。個性的な方で、鞄いっぱいに教則本を詰め込んでやってきて、後輩にいろいろ教えてくれていました。(結構強引に・・・)私もトランペットデュエットで鍛えていただきました!?
頼れば何とか力になろうとしてくださる先輩で、アンサンブルの楽譜や打楽器を借りる手配などをお世話になりました。村田 正雄ゲスト影山さん、森下さん 貴重な情報ありがとうございます。
同好会からクラブへの昇格前夜のような、熱意とともに悲哀?を感じました。
学校側の立場から考えると、皆さんの学年の取り組みがあり、石出さんたちの活動へとつながっていったことは、間違いないと思います。学校ってそういうところで、1回目、2回目と連続してくると、誰かが「なんとかしたらんとなあ」と思ってくれて動き出すものだと思います。たとえ表面的な形での応援はしてなくても、何かの折に賛成に回ってくれたりするものです。大阪城のお堀前での練習、および余興、こんな情報も貴重で、活動の様子が目に浮かぶようです。
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