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記念誌年表(1973年卒)
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OB会管理人キーマスター
以下の内容につきまして「返信」で投稿をお願いいたします。
・年間行事(校内・校外)
※1年生からの行事をご記入ください。
※会場もわかればお知らせください。
・顧問の先生
・学生指揮者
・活動場所
・その他特筆すべき内容(楽器を購入したなど)皆様の書き込みが充実した紙面に繋がります。
お忙しいところお手数をおかけいたしますがご協力の程お願い申し上げます。木原敏雄ゲスト半世紀前のことになるのですね。2年目以降は次の学年の方に譲るとして、初年度について。
演奏:森ノ宮青少年会館における文化祭での演奏。曲目 エストレリータ(ポンセ)、 ロミオとジュリエット(二ノ・ロータ)他。
校舎の中庭(昔の校舎の金魚鉢教室の下になります)でのミニコンサート。曲目不詳。クリスマス曲集?顧問:中塚先生
指揮者:坂木隆司君(Tb吹き振り)
特記事項:1年生のみで吹奏楽同好会として設立したため、この学年としては人数的に、設立当初からは若干の出入りはあったものの、(かくいう私も、設立後に参加している)卒業まで活動したのは、5名(Cl,Tp,Hr,Tb,Bs)という構成だった。それだけに、年数を重ねる毎に新入生が入ってきてくれて、徐々に楽団らしくなってゆく事だけでも大変うれしいことでした。
また何か思い出したら書き込みます。
木原敏雄 1973年卒 Tp担当
村田正雄ゲスト先輩たち5人は、それぞれクラシック音楽への造詣が深く、FMのエアチェック(古い世代しかわからない?)を熱心にされていたりまたそれぞれの個性が際立っていて、ああ、この5人やからこの後の展開があったんやなあと思います。尊敬してます。情報でなくてすみません。2年目以降の「大作」に取り組んだことは、大胆な判断でした。
木原敏雄ゲスト余談というか単なる思い出話ですが、、、。
なんとか2年目を迎えて、新しい学年になった時、こんな小所帯で何も揃っていない”同好会”に、果たして新入生が入ってくれるのだろうかと案じていたところ、複数のそれも恐ろしく腕の立つ奏者が入ってくれてとても嬉しかったです。これで我々5人だけで終わってしまわずに、将来的な展望が開けたと安堵したものでした。多分、何にも揃っていないという実態を知らずに、吹奏楽という名前だけで、ただ音楽がしたいという生粋の音楽好きが入ってくれたのだろうと思ってしまいました。部員全員の持っていた、音楽への情熱だけがよりどころだったでしょうか。
私事ですが、その時に育まれた音楽への情熱は未だに持ち続けていて、これが今の定年後人世のモチベーションとなっています。坂木 隆司ゲスト●創部の経過
中学校の時に吹奏楽部だったので、高校でも、と思っていたが、クラブがないというので仕方なく「音楽部(合唱)」に仮入部した。そこにやはり吹奏楽をやりたかったけど仕方なく音楽部に仮入部していた、清瀬がいた。どうやって話をしたか覚えていないが、二人のお互いのことが分かったので、「じゃあ、吹奏楽部を創ろうか」という話になり、音楽部への正式入部は取りやめた。同好会を創るにもまずは顧問の先生が必要だ。私の担任であった中塚先生がフルートを吹かれると聞き、お願いに行く。快く引き受けてくださったと思う。練習場所は、私のいたホームルーム。音出しを始めるころにはまだ同級生が教室に残っていた事もある。楽器は、もちろん個人持ち。ただ、舟橋がTubaをやっていたが、そのTubaはどこのものだったのか、思い出せない。私のTrbは、心斎橋大丸で売っていた、アレキサンダーのもので値段は、1万5000円だった。メンバーは若干の出入りはあったが、残ったのは、清瀬、舟橋、油利、木原、坂木の5人。●演奏の場
夏の高校野球の応援、文化祭(府立青少年会館)、クリスマスコンサート(中庭)、予餞会など。
高校野球は、いつも清水谷高の吹奏楽部が応援演奏をしてくれていた。しばらくは、2校一緒に2校の応援をしていたと思う。人数が増えて来て、大手前単独での演奏になった? 文化祭は、ステージの広さを痛切に感じた。予餞会は、講堂(ステージ正面に御真影が置かれたと思われるへこみがあった)で行われ、その時に演奏した曲で覚えているのは、ベートーベンの第九 4楽章525小節から。 続く坂木 隆司ゲスト●大フィルの無料入場券
私の家が「大阪市立中央青年センター」のすぐそばであり、センターには大フィルの無料券が置いてあった。(青少年にクラシック音楽に触れてもらおうという趣旨?)座席はフェスティバルホールの2階席の中央一番後ろあたりの席。「そこの席はフェスティバルホールの中で一番音がいい。」とお互い言い合っていた。本当かどうかは分からない。●吹奏楽コンクール
夏休みに吹奏楽コンクールが、府立青少年会館で毎年行われた。よく聴きにいったが、なぜか蒲生中の1stトロンボーンが目立っていて、我々の間では「蒲生の1st」というと話が通じた。それが翌年入部した村田正雄である。●楽譜の店「ササヤ」
現在は、大阪第2ビルの2階にササヤ書店があるが、当時は、大阪駅前ビルなどというものは全くなく、国道2号線沿いに狭い小さなササヤ書店があった。外国の楽譜も置いていて、在庫がない時は取り寄せてもらったこともある。木原敏雄ゲスト雑感
坂木君の話に乗って、、、、旧フェスティバルホールでの大阪フィルハーモニー定期演奏会の入場券は、音楽の細呂木先生も無料配布されていました。ある時、その券を頂いて大フィルの演奏会に行ってきました。その時にベートーベンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」を、荒憲一氏の独奏で聴くことが出来ました。指揮は多分、朝比奈さんか秋山和慶さんかどちらかでした。その時の演奏はいまでも忘れられません。鋼のように強力できらびやかな音色や暖かい響きが、1台のピアノからオーケストラにまけじと鳴り響くのに感動して、ピアノが一気に大好きになりました。
その時に座った席は、良い音がすると有名な2階最後列の真ん中あたりで、pp36とかいう番号だったかな?(ちょっとあやふや)この席は、オーケストラ全体の音が、ホールの豊かな響きに調和されて、素晴らしい音で聞こえてくるのです。1階席の真ん中あたりとは全く音が違いましたねー。この席を好む音楽評論家もいたようで、何かのコラムにそう書いてあったのを覚えています。府立青少年会館での文化祭では、紙飛行機の乱舞が思い出されます。壁にあるスピーカーや、反響材の上まで飛ばして載せてみたり、大変な状況だったなぁ。
練習場所は最初は、坂木君のいた大阪城に面した教室でしたが、その後プール横の教室に移動しましたね。底が丁度大阪府庁別館の隣になるので、時々府庁から騒音の苦情が来ていたように思います。まあしかし、高校が大阪府立なので、あんまりきつくは言われなかったのかも。
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