学生指揮は寺田君で、部長は相見君でした。
文化祭のメイン曲は、1年次がホルストの「木星」
3年次はチャイコフスキーの「スラブ行進曲」。
その他の曲としては、当時、ポールモーリアが流行っていたので、「オリーブの首飾り」や「ふたりの天使」などを演奏しました。
ビートルズの「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ」も演奏し、トロンボーンパートの裏メロが格好良かったのを覚えています。
アバの「ダンシングクイーン」も演奏したような気がします。
野球の試合の応援で、近大付属高校との対戦のときに、大手前には勝つのが当たり前と言わんばかりに、相手校は吹奏楽部の応援も来ずに野球部員だけで応援していたように思います。かなり悔しかったです。
日頃の練習場は1年9組の教室でした。この教室は2階の一番奥の部屋だったために、廊下と一体化されていて他の教室より少し広かったために利用していたのだと思います。プールの直ぐ上(横)の教室だったために、水泳部の知人に「いつも同じ曲を吹いていて、同じところを間違えているので、もう少し上手になって!」と言われたことがありました。
定時制の開始時間の都合で、練習終了時間の制限が厳しかったですね。
練習していたら、「下校時間を守りなさい!」と物理のH先生が注意に来られるので、いつも教室の窓から誰かが様子をうかがっていて、「H先生が来た~~」と言って慌てていたような気がしますが、私の記憶違いかしら?
きっと顧問の中塚先生はH先生や他の先生からもいろいろと指摘(苦情)を受けていらっしゃったことと思いますが、中塚先生はいつも笑顔で、何故かバレーボールを手に持って私達の練習しているところをそっと見に来てくださったような気がします。優しかったですね!
私たちの学年は、先輩方がとても苦労して作ってくださった同好会というレールにのんびり乗っていたような気がします。もう少し積極的にいろいろな活動をするべきだったのでしょうね。
あるとき、アンサンブルコンテストに出演したくて先生に相談したときに、吹奏楽連盟に加入しないことを条件に作った同好会なので、コンクールには出られないと申し訳なさそうにおっしゃったことがありました。
きっと中塚先生は私たちがいろいろなことにチャレンジできるようにしてあげたいのに・・・と気にしていてくださったのでしょう。
その気持ちを理解して、私たちが何か切り開くことができていれば良かったのに・・・と今になると思います。